愛を込めて伊勢海老を

2024年2月16日、何の日か言うまでもないだろう。

我らが自担、天才アイドル目黒蓮氏の27歳の誕生日である。

いつもならアクスタかチルぬい飾ってお花を飾って誕生日ケーキを買ってホール食いして肥大化するか、リア友渡辺担とカフェでパフェって肥大化するのだが、今回は前々からしたいと思っていたことを決行することにした。

 

「伊勢海老を堪能したい」

 

聞くと今年もめでたくめめなべでお正月を過ごし、そこにラウールも加わったハッピーセットで海鮮を楽しんだというではないか。

以前からやろうと思っていたことだが、先日のなべラウのまんまを聴き、

「乗るしかねぇ、このビッグウェーブに」

そう思い至ったのである。

 

私は自分で言うのもなんだが猪突猛進、またの名をブルドーザー、職場では「止まると死ぬ(マグロか)」と言われている。

思い立ったが吉日、次の日に鮮魚に定評のあるスーパーに電話を入れ、誕生日前日に伊勢海老を仕入れてもらったのである。

何故誕生日当日ではないかというと、答えは簡単、誕生日当日は残業なのである(可哀想)。

 

来る2/15、スーパーで名前を告げるとおもむろに渡された発泡スチロール。

 

 

デ カ い 。

そしてガサガサ音がする。

縮尺が分かりにくいのでめめなべに協力してもらったが、デカさが露呈するだけだった。

さて、早速開けてみよう。

 

 

デ カ い 。

しかも生きている。

ギチギチ鳴いている。

とりあえずエビータと名付けた。

ぱふぱふのおがくずはなかった。

 

 

ほーらめめちゃん、エビータ(伊勢海老)だよー。

 

 

ほーーーーら………

 

 

(現実逃避)

 

想像以上にエビータがデカくて急に日和る私。

行き当たりばったりとはこのことである。

とにかくエビータを〆なければ先には進めない。

文明の利器、スマートフォンで調べた情報を頼りにまずは伊勢海老を氷水で弱らせる。

 

 

急に動かなくなるエビータ。

 

 

まだ実家に帰っていないヌッコも興味津々である。

どいてくれ。

 

さて、大人しくなった今、エビータを殺っていいのか。

愚かな私は、名前を付けたせいでエビータに愛着が湧いてきてしまったのである。

しかしここでもたついていては先に進めない。

エビータを飼育できる環境はうちには無い。

覚悟を決め、ここは自担と同じように『命をいただきます』と手を合わせ、エビータの殻と身の間に包丁を入れる。

 

 

エビータァァァァァァ!!!!!!!

 

 

 

ああああああエビータァァァァァァァァァァァァ!!!!!

 

あっという間にエビータはお亡くなりになってしまった。

ここまでくる過程?

無い。

そんな余裕あるわけないだろ。

料理ブロガーじゃないんだぞ、ただのオタクだぞこっちは。

 

しかしこのエビータ、死後直後の筋肉の反射なのだろう、ビクビクと動く。

その度に私は「うわぁぁぁぁ!!!」と叫びながら殻を切っていったのである。

 

↑お味噌汁にクラスチェンジしようとしているエビータ。

 

胴体は刺身用に少々切り分け、残りは塩胡椒とマヨネーズとパン粉を掛けてグリルで焼き、頭は目黒くんに習って味噌汁にしていく。

 

 

目黒くん出来たよー。

 

エビータの頭がデカ過ぎて汁椀に入らなかったのでラーメン丼によそった。

過程?ある訳ない、素人だぞこっちは。

映え?知らん、腹に入れば全部同じである。

 

肝心の味であるが、本当に本当に美味しい。

刺身はぶりぶりで新鮮で甘味があるし、グリルは弾力があって食べ応えがあり、旨味がギュッと詰まっている。

味噌汁は海老の出汁が余す所なく溶け出ており、具らしい具がなくてもとんでもない満足感を得られる。

美味過ぎて全部食べようとしたら家人に怒られたほど美味かった。

自担が海鮮に対し変態チックになる(渡辺くん談 2024.2.8 素のまんまより)のも納得な美味さである。

 

 

ほーら、お正月を思い出すね。

 

さて、満足ゆえに唐突に総評である。

生きてる伊勢海老を〆るのはなかなか勇気がいる。

しかしそこを乗り越えてこそ伊勢海老との奇跡の邂逅が実現する。

私は今回、エビータとの出会いと別れを経験し、新鮮な伊勢海老の美味さを知るという得難い経験を得た。

これも自分が目黒担でないとやろうと思わなかったであろう。

また一つ、目黒くんのお陰で人生の厚みが増してしまった(超絶ポジティブ)。

 

26歳の年は我々に素晴らしい景色を見せてくれた目黒くん、27歳の年はどんな光景を見せてくれるのだろうと胸に期待を覚えながら、私はエビータを完食したのである。

 

ご馳走様でした。

月が満ちてまた欠けるように

自担の初めての単独出演作品。
情報解禁を知って即原作を読んだ。

話自体は小難しさもなくシンプルなテーマながら、気になったのは過去と現在が複雑に入り交じる構成と、今のご時世に少し引っ掛かりそうなセンシティブな部分を含んでいたところ。

楽しみであるとともに、どう持ってくるのかが不安でもあった。

12/2の公開日の前日に前夜祭があって先に観れるということで即チケットをとった。

奮発してなんか高いシートにもした。

この日だけは絶対残業しねぇと周囲にも言っていたのに、何故かその日に限って起こるシステム障害。

残らなくていいのでSE対応が終わったらその日に確認しに帰って来てください、という非情な宣告を背中に受けながら私は映画館に走った。

原作と映画を比べた時に感じたのが、「随分綺麗にまとめたな」ということ。

原作を読んだ人の一部は感じるかもしれない嫌悪感を払拭する造りになっていたと思う。
はっきり言えば正木瑠璃と三角哲彦って不倫関係だし、映画の正木瑠璃は気丈だけど控えめで儚くて三角との恋愛に苦悩するとにかく可哀想な女性として描かれているけど、原作の彼女は達観はしてるもののもっと強かで三角への執念も凄まじいし、実はバックレ癖があって(多分達観と紙一重の原作瑠璃の性質だと思ってる)正木と出会ったタバコ店もズル休みしてクビ寸前だっし、自分が生まれ変われる人間だってことも把握して三角へ「もっと若くて綺麗な女性に生まれ変わって会いに行く(意訳)」って伝えてるし、多分嫌いな人は嫌いな人種。
原作も正木から割と酷い扱いを受けていることは変わらないけど、映画ほどの過酷さは無かったかなぁ…これも個人の感想ですが。

そこを瑠璃の人格と境遇を一部改編することで瑠璃と三角の恋愛を語弊を恐れずに言うなら「正当化」出来る要素にしたんだろうなと。
監督が目黒くんに「原作は読まずに来てください(ウロ覚え)」と伝えたのが納得できるほど、映画と原作の瑠璃さんは別物。一方で三角はかなり原作に忠実に描かれていた。

あと、これ映画化に当たってかなり気を遣った部分だと思うんだけど、ひとつ間違えば小児性愛を容認してるのではないかという描写も原作にはあって。確かに精神は成人した正木瑠璃でも、身体的には高校生だったり小学生だったりするので、これを演出なり脚本なりを一つ間違えば意図しない方向に飛び火して炎上しかねない要素でもあるから、そこを上手くオブラートに包んだりカットしたりしたのは英断だったのではないかな。
それでも考え付く人はやはり小児性愛に行きつくかもしれないけど、もう物語の主軸が「生まれ変わってもあなたに会いたい」だからそこは致し方無いとは考える。

決定的に違ったのは田中圭さん演じる正木竜之介の扱い。

原作では三角と恋に落ちる正木瑠璃が亡くなった後に田舎で再就職して映画には出てこない3人目の瑠璃(映画では緑坂るりが3人目だけど原作では4人目)と出会って最終的に瑠璃と三角を再会させる手助けをしてるわけですよ。彼もまたそのパートでスポットライトを浴び、瑠璃とある意味で和解した。原作では彼は絶対悪では無かった。瑠璃の手助けをしたのに最終的に誘拐犯として収監され獄死する不憫で救われない人だった。

そこを映画では敢えて絶対悪にすることで、本来の3人目の瑠璃を出してしまうと上映時間に収まらないという時間的制約と、1人分時間が開くことで瑠璃と三角の年齢差がさらに広がってしまうことで生じる前述の小児性愛の問題、「瑠璃と三角はやはり結ばれるべきだ」という、これも語弊を恐れずに言うなら視聴者の感情の持って行き方に成功したと思う。

個人的にものすごく心を揺さぶられたのは、色んな人間から(と言っても三角と緑坂ゆいの二人か)「貴方の娘の小山内瑠璃は正木瑠璃の生まれ変わりだ」と言われ続けた小山内が「小山内瑠璃は私の娘だ、正木瑠璃なんていう知らない人間の生まれ変わりじゃない」っていうところでした。
皆『正木瑠璃の生まれ変わり』を『三角哲彦』に会わせるために動いているように見えている中、私は「これ小山内どんな気持ちなんよ……自分の娘が知らん女の生まれ変わりで知らん男に会いに行く途中で死んだんやでって言われてるようなもんやん……」って違う方向で泣いていたので(癖強)、終盤で小山内が静かに声を震わせながら怒りすらはらんだ口調で前述の台詞を言ってもうヤバかった。画面見えないくらい泣いた。

考えてもみてくださいよ。

愛する自分の一人娘と愛する妻が同時に亡くなって独りきりになって、何もかもから逃げるように田舎に帰って現実を受け止めようとしてやっと落ち着いてきた頃に、「娘はある女性の生まれ変わりで、前世の恋人に会いに行く途中で貴方の妻もろとも死にました」って複数の人間から言われたらどんな気持ちなのかって話ですよ。私だったら目の前の人間ぶん殴って追い出して塩撒いてる(急に暴力)。
それを静かに聞いて時に怒り、時に絶望し、最後は全てを受け止めようとする大泉洋兄(けい)の演技力の底深さよ。そこに厚底で目黒くんと張り合っていた大泉兄は居なかった。ただただ、大泉さんの演技力に惹き込まれ、私は涙で化粧全部取れた状態でそのまま職場に戻った(地獄)。

目黒くんの演技の話をします。
三角が初めてスクリーンに映し出された時最初に思ったのは、「目黒くんだ………」じゃなくて「三角哲彦だ………」だった。

本当に三角哲彦がそこに居て生活をしている様子が感じられるようなフィクションの中の現実味を感じた。良い意味で芋っぽい、 Jr.の頃の目黒くんみがあってアイドル特有のキラキラ感やオーラは一切無く、適当に大学生活を送っている(失礼)そこら辺の大学生感が出てたと思う、顔はハチャメチャに良いが。
瑠璃と出会って三角の中で何かが変わって、撮りたいものも明確になって小山内に会いに行った39歳の三角哲彦になったんだろうと我々に思わせるほど『三角哲彦』が降臨していたよ。
目黒くんは自身を憑依型じゃない、撮影期間中は常に三角の気持ちを考えて現場に臨んでいたって言っていたから、本当に辛かっただろうと思う。だって映画を観た私が辛いって思ったくらいだから、演じた本人はこの辛い気持ちをずっとキープし続けなきゃいけないわけで。精神にかなりキてる状態だったろうな…なんて当時の状況に思いすら馳せてしまうほどに。(後に「瑠璃さんとの別れのシーン撮影の日は車の中で泣いた」っていうエピが投下されて「あぁ……やっぱり……」って思ったし)
スケジューリングは大変だったろうけど、撮影期間中にライブっていうメンバーと会ってSnow Man目黒蓮にスイッチング出来るタイミングがあって良かったかもしれないと思ってしまいました。
今まで色んな役を演じる目黒くんを観てきたけど、三角哲彦が一番目黒くんが演じるなかでしっくり来てるかもしれない。俗っぽい言い方をするとそれ程ハマり役でした。
役にリアリティを添えてそれをほんの少しの湿度を帯びた生命を吹き込んだ演技をする目黒くんは、スクリーンの中では確かに三角哲彦その人だった。そういう意味でも、目黒くんは銀幕に映える人だと思いました。
目黒くんは苦悩する役が多い気がするから今度はコメディとかに出て能天気に笑える役も演じてみて欲しいなぁ。

女性陣の演技も圧巻というか、それぞれ女性の強さを見事に演じていた。とくに柴崎さんの夫を静かだけど深く愛していると分かる演技が胸に来て、小山内夫婦って本当に理想的な夫婦だなぁって羨ましくなるほど良かった。そら瑠璃も小山内夫婦の子どもに生まれ変わりたいって思うよ(実際なったし)。

かなり原作を改編してるけど全てがプラスに働いて、非常に綺麗にまとまった、恋愛ものと括るのは勿体ないほど良質な人間ドラマ。
何よりこんなに錚々たる演者の中で俳優・目黒蓮が華々しく光を放っているのが凄すぎて涙が出ました。これからも素敵な作品に巡り合えるんだろうなぁと彼のこれからに想いを馳せてしまうほど、目黒くんの演技に確信を持ちました。

未来は明るい。
もっともっと、大きくなれよ、自担。

 

 

↓ここからラブシーンに言及してます。

 

 

 

 

 

 

いわゆるベッドシーンは割とソフトで瑠璃からいきなりキスされた後にまた数回、衣服を脱いでベッドに入ってまた少しキス……みたいな程度で終始綺麗なものを見ている感覚だった。出会って間もないけど心から求め合う二人を描くなら必要不可欠なシーンだったと思う。ここも個人差ですけどね。
原作は最初こそ「二人は朝まで眠らなかった」っていうライトな書き方だけど、一旦期間は空くもそこから何回も夜を共にした表記は出てくるし、結構下世話な会話もするし、そこを全部すっ飛ばして映画では再会してブランケットを被った下着姿の瑠璃(しかも三角の家を出るギリギリまで隠してる)とTシャツを着てる三角っていうわずか二回の描写しか無いわけで。かなりこれは原作との兼ね合いとオタクへの配慮に苦労したのでは…?と思った。
余談だけど原作では何回かの事後に三角がタバコを吸う描写が出てきて、当時私は「タバコ吸う目黒くん見れたら死んでもいいかもしれないな」なんてうち震えていたのは内緒である。